西国街道とは
中世以前の山陽道は、畑賀から日浦山の北側甲越えを府中へ抜けるのが通常の道筋で、海岸沿いに海田市を経由する道路はまだ十分整備されていませんでした。
その後、江戸時代に入り、寛永10年(1633)に幕府巡検使の巡察が行われたのに伴い、広島藩内の道路制度は、画期的に整備がすすめられました。道幅も二間半(約4.5メートル)に定められ、宿駅として海田市の発展が始まりました。
西国街道は、京都と下関を結ぶ主要道として、重要な役割を果たし、宿駅や一里塚、街道松が整備されました。
参勤交代の大名たちや多くの旅人、商人が賑やかに行きかったであろうこの道では、町並みや小路に今でもその面影をみることができます。
①海田市駅
明治27年(1894)に山陽本線、明治36年(1903)に呉線が開通。呉鎮守府への交通の要所となり、駅には急行が止まり貴賓室が設けられ、旅館や料亭も立ち並び駅前は大いに賑わった。駅名は当時から変わっていない。
②火の見やぐら 浜の通り
大正時代から昭和40年代まで、浜の通りには町ごとに火の見やぐらが並んでいた。昭和10年までは船越へ流れる水路があった。アジアで初めての金メダリスト・織田幹雄さんは、稲荷町の生まれ、三段跳び15m21cm。
③明顕寺
天文10年(1541)開基
浄土真宗
第2次長州戦争で戦死した高田藩士の墓や芸州鋳物師筆頭総代の名工 植木(金屋)源兵衛製作の梵鐘がある。
④三宅家住宅
江戸時代から明治にかけての大農家。屋号は新宅屋、母屋は寛政元年(1789)の建築。土蔵などが残され江戸時代の面影が残されている。
⑤旧千葉家住宅
別ページ参照(こちら)
⑥脇本陣跡・加藤家
屋号は猫屋、広島の猫屋町からやってきた。海田市の庄屋や宿駅業務の脇本陣役も勤めた。参勤交代では家老などが泊まり、一般の旅人も休泊した。明治になると安芸郡の郡役所が置かれた。
⑦海田恵比須神社
海田市が完成した頃の延宝3年(1675)市町全体の発展・商売繁盛を願い町の中心に設置された。上市、中店、稲荷町、新町と昔ながらの町名が残る。
⑧御茶屋跡
参勤交代の大名や幕府の役人が宿泊するために宿場町に設置された施設。広島藩が設置した海田市の施設は、御茶屋と呼ばれた。(玖波、廿日市は本陣と呼ばれた)
宿駅業務の基地でもあり、伝馬役として海田では人馬15組や駕籠10挺などが置かれ、高札場も置かれていた。
⑨熊野神社
海田市の氏神。承応3年(1654)、庄屋の猫屋次郎兵衛が願主となり建立。宝永元年(1704)社殿造営、文政8年(1825)拝殿再建。拝殿には、三十六歌仙の絵馬が掲げられている。
⑩灘道・馬の背
西国街道が整備される以前の東西を結ぶ生活道。道沿いに加藤缶楽(ふらく)や植木源兵衛の墓などがある。
・楠木地蔵堂
耳の病気にご利益があると云われている。寛政11年(1799)9月の墓碑名がある。
・大師寺(写真)
天保元年(1830)開基、高野山真言宗。広島新四国八十八ヶ所35番霊場。宮島の大願寺が一番霊場。
・清正寺
天明年間(1785頃)開基、日蓮宗。お百度詣りが体験できる。
⑪一里塚跡
寛永10年(1633)西国街道が整備され海田市は宿場町になった。
一里ごとに街道の両側に直径約6mの塚を設け2本ずつ松の木が植えられた。大正10年(1921)に撤去された。
⑫向かい合わせの神社
【胡子神社】(左)
天保5年(1834)勧請。昭和初期に現在地に移設され新町地域をお守りしている。秋祭りには熊野神社から神輿が来る。
【荒神社】(右)
明治6年(1873)、瀬野川の瀬替えに伴い移設され稲荷町地域をお守りしている。